連日熱戦の続く東京オリンピックですが、医療従事者もそれを縁の下で支えています。では、オリンピックの現場ではどのような医療体制が築かれているのでしょうか? コロナ下で医療負荷となっていないのでしょうか? 埼玉スタジアム2002を任されている自治医科大学附属さいたま医療センター救命救急センター長の守谷俊先生に伺いました。
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自治医科大学医学部教授。自治医科大学附属さいたま医療センター救命救急センター長。日本大学客員教授。St.Vincent College Hospital 外傷災害部門客員教授。日本DMAT統括。日本大学を卒業後、1992年渡米。外傷診療の研鑽を積み帰国。チャットポッド形式による埼玉県AI救急相談の開発。ドクターカーと世界で4台目のハイブリッドERとの診療を組み合わせた革新的な救急医療を展開。
守谷 まず最初にお断りしておきたいのですが、私がお話しできるのは、担当した埼玉県内のひとつの競技会場の事例だということです。東京オリンピックの医療体制の全体像、あるいは他会場の状況については正確に知りませんし、お話しできる立場でもありません。
讃井 担当されたのはどの会場で、どのような役割を担っていたのですか?
守谷 サッカー会場のひとつ、埼玉スタジアム2002の医師団を統括するVMO(ベニュー・メディカル・オフィサー)です。東京オリンピックの競技会場はおよそ50か所、そのうち埼玉県内には4か所あり、医療のオペレーションは各競技会場のVMOに任されています。VMOは、選手用医師団、観客用医師団をつくり、それを統括。さまざまな事態を想定してオペレーションの計画を立て、準備をします。さらに傷病者が出た場合に、搬送するかどうかの最終的な判断、搬送先の決定を行うのもVMOです。 讃井 準備段階から埼スタのオペレーションを一任されていたのですね。
守谷 はい。3年前、東京オリンピック組織委員会から依頼があり、そこから準備を始めました。災害医療の中で、「マスギャザリング(一定期間,限定された地域において,同一目的で集合した多人数の集団)」の医療はひとつの分野として確立しているのですが、その指揮命令系統などは日常の救急医療に準じる部分が多くあるんです。
讃井 どのような事態をシミュレーションされたのですか?
守谷 たとえばテロが起こって、多数の傷病者が発生するケースです。テロが発生した時にもっとも重要なのは警察・消防との連携ですので、事前にお互いの動きを確認しました。私達は、消防の指揮下に入ります。警察からはテロに関する情報の早期入手が大切になってきます。彼らとは、日ごろから救急医療でお付き合いがあるので、この点はスムーズでした。さらに最悪の事態になったら、DMAT(災害医療派遣チーム)の派遣を要請しなければなりませんが、私自身が統括DMAT登録者(災害時に各DMATを統括して責任者として活動する資格保有者)なので、VMOから統括DMATにそのままシフトして対応することにしました。細部は言えませんが、テロで私が倒れた場合の対応まで決めていたんですよ。
讃井 サッカーは試合中の選手の怪我が多いと思いますが、それについてはどのように想定されていたのですか? 守谷 各国代表チームには、チームドクターが帯同します。事前に情報収集したところ、サッカーの競技特性として筋肉や靱帯などの損傷が多いので、チームドクターから「怪我をした選手のMRIをすぐに撮ってほしい」というリクエストが多いということがわかりました。そこで、搬送予定先の病院に、あらかじめMRIを撮れるようにお願いしておきました。
実際の試合には、FIFA(国際サッカー連盟。サッカー競技はIOCではなくFIFA管轄)からもドクターが来ましたので、チームドクター、FIFAのドクター、そしてわれわれの3者の意見が割れないように日本の救急システムを説明するなどコミュニケーションに努めつつ、選手のことを一番知っているチームドクターの意見をできるだけ尊重しようというスタンスで臨みました。
讃井 搬送事例はあったのですか?
守谷 現時点(8月3日)までで1件です。試合中に選手が頭を強打して、めまいの症状があったので、頭部外傷、内耳障害などの可能性を考えて救急搬送することにしました。
讃井 守谷先生はさまざまなマスギャザリングでのご経験が豊富だと思いますが、これまでのイベントと今回のオリンピックの災害救急対策に何か違いはあるのでしょうか?
守谷 オリンピックだからということよりも、コロナ渦の大会であるというということが極めて特殊だと感じています。
第一に、どれぐらいの規模のイベントになるのか直前までわからなかったこと。そもそも1年延期されていますし、今年開催されるのかどうかもわかりませんでした。さらに、有観客になるのか、無観客になるのかもわからなかったので、対応する医師を何人準備すればいいのか、ずっと悩まされていました。7月8日に無観客の決定がなされましたが、無観客といっても関係者がスタジアムには入ります。それが一体何人になるのかがわからないままでした。最後の最後に4000人ぐらいではないかということがわかり、それに合わせてやや余裕のある人数を配置することにしました。
讃井 最終的に医師団の規模はどれぐらいだったのですか?
守谷 選手用医師団は、医師2~3人と、1チーム4人の担架隊が2チーム。観客用医師団は、私の他に3人の医師と4人の看護師です。当初は6万人の観客を前提に準備していましたので、観客用医師団は大幅に減らしました。
讃井 臨機応変に対応されたということですね。
守谷 最後までオリンピックの開催がどうなるかわからない中で、組織委員会もわれわれに確定情報を出しようがなかったのだと思います。それは仕方がありません。そのような状況下では、情報が伝わってくるのを待つのではなく、自分達が責任を持ってできることを確実にやっておくことが重要です。医師団の編成や消防・警察とのコミュニケーションを進めていましたので、悩みはしましたけれど混乱はありませんでした。 もうひとつ、これまでのマスギャザリングとの違いは、新型コロナ感染症対策を考えなければならなかったことです。
讃井 感染予防策を徹底する必要がありますよね。ただ、無観客になったことでクラスターの発生リスクはかなり減ったと思います。また、選手・関係者はワクチンの接種率が高いはずなので、比較的安全なのではないですか?
守谷 とはいえ、たとえば海外の報道機関の人がどの程度ワクチンを接種しているかといった情報はまったくありません。やはり原則通り慎重な対応が必要なので、スタジアム内で発熱患者が出た場合に備えて抗原検査ができるような体制を整えました。
選手用医師団についても、コロナ対応を考えなければなりませんでした。実際、埼スタでは大会直前に3人の陽性者が出た南アフリカ代表の試合がありました。チーム内の18人が濃厚接触者に認定されており、倒れたらすぐにマスクをつけてもらうなど、細部まで対応を詰めておく必要がありました。
讃井 そのように準備をされ、試合がある日は埼スタに行かれているわけですが、オリンピックによって通常の医療体制に負荷がかかっているのでしょうか。
守谷 埼スタについていえば、当院(自治医科大学附属さいたま医療センター)だけでなく、他の県内の病院や栃木の本院(自治医科大学付属病院)から少しずつ人員をヘルプしていただいているので、大きな負荷にはなっていないと思います。サッカーは試合開始が夕方以降ですので、私自身も試合のある日の夕方から夜にかけて埼スタに行くだけで、それ以外は通常勤務をしています。
讃井 エクストラワーク(時間外労働)なんですね。
守谷 スタジアムに待機する3台の救急車も、大宮消防署で稼働していない予備の救急車を使っています。ですから、街中に出ている救急車の数は減っていません。かつ、それに乗っているのは夜勤明けの救急隊のみなさんです。通常業務に影響が出ないよう、こちらもエクストラワークなんです。 讃井 テロなど巨大な災害が起こらない限り、病院も消防も人員を一定数提供するけれども、基本的にはエクストラワークなので大きな影響を受けない。負担が多少増える部分はあるかもしれないけれど、オリンピックによって通常診療・コロナ診療にブレーキがかかるほどではないということなんですね。
守谷 少なくとも現状の埼スタに関してはそう言えると思います。
讃井 最後に…オリンピック開催に関してはさまざまな意見がありましたが、現場を預かる医師としてはどのようにお考えですか。 守谷 開催すると決まったら責任をもってやりとげる――それがVMOの立場です。最初にお話ししたとおり直前まで不確定要素が多く、非常に準備が難しい状況でした。しかし、そういう時こそ力を発揮し、乗り越えられるのが、救急医療のプロフェッショナルだと自負しています。加えて、うまく運営できたのは、日ごろの救急医療が生かせた、つまり、医療関係者、消防、警察などふだんから顔を知っている仲間と協力できたことが大きかったと思います。
讃井 貴重なお話をありがとうございました。
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この連載は、いい情報も悪い情報も包み隠さず、医療現場で起こっている事実を客観的にお伝えするために続けています。それは、一部の報道がともすれば結論ありきの切り取り・図式的なものとなっているという危機感を私が感じているからです。オリンピックをめぐっても、開催前に医療負荷を問題視する報道がありました。一見納得してしまいがちな問題提起ですが、守谷先生の語る現場の実際からは、少なくとも埼玉県ではオリンピック開催が現段階では過大な医療負荷にはなっていないことがわかりました(ただし、東京都に関してはわかりませんので、別途客観的に評価しなければならないでしょう)。
一方で、オリンピック開催による楽観バイアスが爆発的な感染拡大に影響を与えているという見方もあります。実際、埼玉県では、新規感染者は制御できないスピードで増加し、家庭内、職場内発生が増えています。結果的に、今までであればすぐに入院できたリスクの高い患者の入院先が3~4日経たないと決まらなかったり、救急車の受け入れ先が5~6ヶ所当たっても決まらなかったり、他疾患で受診する患者が検査で陽性とわかる事態も多発しています。また、重症患者も週に5~10人程度ずつ増加し、20歳台で人工呼吸が必要になったり、1ヶ月経っても人工呼吸器やECMOを外せない40~50歳台の患者も出てきました。オリンピックによる医療への影響については、冷静かつ多角的に分析する必要があると思います。
(7月29対談 8月3日一部口述 構成・文/鍋田吉郎)
※ここに記す内容は所属組織・学会と離れ、讃井教授、守谷教授個人の見解であることをご承知おきください(ヒューモニー編集部)。
連載第62回は8月16日掲載予定です。