9月6日、第4回日本集中治療医学会関東甲信越支部学術集会が開催されました。いわゆる“学会”です。ビジネスや学校教育の現場など、社会全体が新型コロナウイルス感染症によって変容を余儀なくされたのと同様、今回の学会は例年とはまったく異なる形となりました。
ビフォー・コロナの学会は、大きな会場に多数の医療従事者が集まって“密”な状態で開かれていました。しかし新型コロナウイルスの感染が拡大した3月以降、多くの学会が中止あるいはWeb配信のみのオンライン形式での開催になりました。9月6日のわれわれの学会は、リアル対面形式とオンライン形式を組み合わせたハイブリッド形式を採用しましたが、実際に会場に来る医療従事者は少なく、ほとんどの方はオンライン経由での参加でした。
私自身は会場のパシフィコ横浜ノースに足を運んで講演や座長を務めたのですが、聴衆は広い会場にポツンポツンといるだけでした。その際にあらためて考えさせられた学会の意義をまとめてみたいと思います。
…その前に、そもそも学会とはどのようなものなのでしょうか(Wikipedia参照)。「△△先生、〇月×日は学会出席のため休診いたします」という貼り紙を病院でご覧になったことがある方は多いでしょう。病院の診療科は、内科、外科、整形外科、耳鼻咽喉科…というように分かれていますが、それぞれに学会があります。さらに、たとえば内科なら消化器内科、呼吸器内科、循環器内科など細分化された専門分野ごとに学会があります。しかも、たとえば消化器内科だけでも、日本消化器病学会、日本消化器内視鏡学会、日本肝臓学会、日本消化管学会日本消化吸収学会、日本高齢消化器病学会、日本神経消化器病学会など、臨床や研究テーマごとに大小さまざまな学会があり、小さい研究会まで含めると星の数ほどあると言ってもよいでしょう。
各学会は、全国規模の本会(全国集会)と地方ブロックごとの支部会(支部集会)があり、どちらも1年に1回開かれ、学会によっては医師だけでなく看護師や薬剤師、臨床工学技士、管理栄養士などのメディカル・スタッフも参加します。前述のとおり、ビフォー・コロナではそれら参加者が一堂に会するのが学会の当たり前の姿でした。
では、学会の意義とは? 私はこれまでの学会には、大きく3つの意義があったと思います。学びの場となること、情報交換の場となること、エネルギー再充填の場となること、の3つです。
①学びの場としての学会
学会では500~1000人が入るような大会場で、その分野のエキスパートによる講演が行われます。皆が聴きたい(=非常にためになる)教育的な内容の講演、今後の専門領域の方向性を決める最新の大規模研究の成果発表やその中間報告といった最先端(カッティング・エッジ)の内容の講演です。そういったすぐれた内容に触れるという、教育・研修の意義が学会にはあります。
②情報交換の場としての学会
学会では、大会場の講演だけでなく、「一般演題」と呼ばれる研究発表が行われます。学会は、学会員が自分の研究や治療経験を発表する「研究発表の場」でもあるのです。一般演題はひとつの学会で数百、場合によっては1,000以上に上ることもあります。発表者は、学会開催日の数か月前に事務局に抄録(要約)を送り、当日はこの抄録に基づいてオーラル・プレゼンテーション(口頭発表)もしくはポスターを使ったプレゼンテーションを行います。
この一般演題の特徴は、論文にまではいたっていない研究や、事例の発表だということです。そこには、情報の不確かさはあるものの、その欠点を補うだけの「情報が速い」「臨床や研究現場の実情・苦労・工夫が共有できる」「客観的な意見(=批判)をもらえる」という大きな意味があります。
「うちではこの症例について、こんな取り組みを行い、効果がありました」
「なるほど。最終的に有効かどうかはわからないけど、うちでもやってみようか」
「〇〇病院の××先生から、非常に貴重な批判をいたたいた。研究方法を見直してみよう」
学会では、このようなリアルタイムの情報交換が活発に行われるわけです。
9月6日の学会の一般演題では、ハード的な制約などによりオーラルやポスターのプレゼンテーションは原則的になく(スライドをサイトに上げて閲覧する形式を採用)、リアルな情報交換・意見交換がほとんどできなかったのは残念でした。
一方で、内容的には新型コロナ感染症をテーマにした発表が多く、非常に充実していました。関東甲信越という比較的罹患率が高い地域だった面もありますが、やはりこの半年それぞれの集中治療医が新型コロナ感染症と戦ってきたことを反映した発表なのだと思います。その新型コロナ感染症に関する最新の情報が学会で共有された意義は大きいと思います。
蛇足ですが、「一般演題」には、若い医療従事者・研究者の登竜門としての意義もあります。たとえば医療従事者は、毎日、同僚に向けて患者の状態の報告、評価、治療計画のオーラル・プレゼンテーションを行なっています。「一般演題」の「事例の発表」は、このオーラル・プレゼンテーションを昇華させ、十分な準備のもと、より科学的な形にまとめ、公的な場で発表することなのです。この準備から発表に至るプロセスに、普段の診療で得られない充実感を感じた若者の中には、「もう少し高度な臨床研究や基礎研究をやってみよう」とスイッチが入る人がいるでしょう。
もうひとつは、ペースメーカーとしての役割です。学会発表の提出期限が決まっていることは、「〇月×日までにデータを入力して統計解析をしておかなければ間に合わない」という締切日が設定されることになるので、それに向けて頑張らざるを得なくなります。医療従事者のほとんどは毎日の診療で忙しく、研究のモチベーション維持は苦労の種です。このような学会のペースメーカー機能はありがたいのではないでしょうか。
③エネルギー再充填の場としての学会
会場でいろいろな人と会って(ここでも)情報交換をしたり、旧交を温めたりといったサロン的な面も学会にはあります。そういった機会は学会以外にはなかなかありません。また、空いた時間に観光する、旧友と食事に行くといった、ちょっとした旅行の要素もあります。パターン化している多忙な日常に対し、非日常性が学会に期待されている役割のひとつといえるでしょう。医療従事者にとって学会は、「ひと息つく時間」「エネルギーを再充填するハレの場」になっていると思います。
患者の中には、「△△先生、学会出席のため休診」という掲示を見て、「学会でもお仕事されて、気が抜けませんね。お気の毒に」「ご自身の研究成果を発表して、難しい討論して、さすが△△先生、ありがたや、ありがたや」と思う人がいる一方、多くの同僚は「△△先生、学会で息抜きできていいね」と思っているかもしれません。実際、一部に、学会場に行くのは初日の一瞬だけで、「これも自己研鑽の一環だ」と宣言して、昼夜を問わず観光活動に精を出す人がいます。そんな人ほど、“自己研鑽”の成果をFacebookで発表してしまい、「△△先生、ああやっぱりね」と呆れながら“いいねボタン”を押される始末。エネルギー再充填もほどほどにしたいものです。
以上のようなビフォー・コロナの学会の意義の中には、今回のハイブリッド形式で失われたものがあります。大多数のオンライン経由で参加した方にとっては、「エネルギー再充填の場」にはなりませんでした。会場に行った私も、従来と比べて来場者が格段に少なかったため、フェイス・トゥ・フェイスの情報交換はほとんどできませんでした。
自身の講演では、「会場に人がまばらで寂しい」というのが第一印象でした。語りかける相手は目の前の聴衆ではなく、コンピューター越しの誰かです。聴衆の反応を見ながら話すことができず、「何人聴いているのだろうか」「はたして届いているのだろうか」という不安を常に抱えながらの講演となりました。双方向の意見交換をする工夫として、チャットでコメントや質問を受け付けたのですが、それとて即時性はなくやはり顔が見えないため盛り上がりません。リアル対面形式だと、重鎮の先生から厳しい質問が出て、ある意味修羅場になることがあるのですが、そういった戦いがないのもつまらないものです。最後まで、演台の前に見えないアクリル板があるような、「やりにくい」講演でした。
一方で、Webの参加者からは、「オンライン形式は良かった」という声も多く聞かれました。「ハレの場がなくなるのは残念だけれど、仕事の合間に講演を聞けるのはありがたい」という意見です。実際、私自身も昨晩、ベルギーのブリュッセルで今まさに開催されている国際学会の講演を聴講しました。これまでであればブリュッセルに行かないと聞けなかった講演を手軽に聞けるのは大きなメリットだと感じます。リアル対面形式でディスカッションするのが苦手で、一方通行のレクチャーを好む日本人の特性からすると、①の教育・研修的な講演はオンライン形式が合っているのかもしれません。ビジネスや学校教育の現場が、リアルとリモートを使い分けていこうとしているのと同じように、学会も従来の形式に固執せず、柔軟に対応してゆく必要があると思います。
来年6月に開催される、第5回日本集中治療医学会関東甲信越支部学術集会は、私が会長として開催することが決まっています。おそらく、新型コロナ感染症に対する集中治療のあり方をある程度総括する場となることでしょう。より進化したハイブリッド形式を模索し、学会のさまざまな意義を再確認できる場にしたい――今知恵を絞っているところです。
(9月16日口述 構成・文/鍋田吉郎)
※ここに記す内容は所属病院・学会と離れ、讃井教授個人の見解であることをご承知おきください(ヒューモニー編集部)。
連載第19回「ワクチンの臨床研究で日本が遅れている理由」(9月28日掲載予定)