新型コロナウイルスのワクチンの開発がいままで見たことのないようなスピードで進んでいます。その報道を目にしない日はありません。
ワクチンとは感染症に対する免疫を獲得するための医薬品です。その開発は(新薬の開発と同様)、おおむね以下のような段階を踏みます。
①基礎研究:薬になる可能性のある物質を調べる。
②非臨床試験:動物や細胞を使って有効性と安全性を確認する。
③第Ⅰ相試験:少数の健康成人に対して行う臨床試験。おもに安全性、吸収・排泄の時間などを調べる。
④第Ⅱ相試験:比較的少数の患者に投与し、有効性・安全性を調べる。
⑤第Ⅲ相試験:多数の患者について、標準的な薬もしくはプラセボ(ブドウ糖などの偽薬)と比較して有効性・安全性を確認する。
⑥医薬品として承認:日本の場合、厚生労働省に対して承認申請。厚労省が審査・承認を行う。
⑦第Ⅳ相試験:市販後に行われる再確認。多くの患者が長期間にわたって使用した時の安全性・有効性などの情報を集める。
このように、安全性や有効性を見極めるため、ワクチンの開発は非常に慎重かつ長時間をかけて行われます。研究開始から承認まで、早くても10年ほどかかるのが普通です。ところが、新型コロナウイルス感染症では、開発期間が1年前後に短縮されようとしているのです。
それは、死亡者が多く経済への影響も甚大な世界的なパンデミックに対し、医学者・科学者・製薬会社などが総力を挙げて戦っている結果なのだと思います。グローバルな情報の共有は非常に活発で、すさまじい量のデータ・情報が世界を駆け巡っています。ただし情報は玉石混交で、中にはセンセーショナルではあるけれど怪しいものもあるので、注意をする必要があるのですが…。
これだけスピードが速いと、安全性が担保されているのか心配になります。
もともと日本では、ワクチンによって何か弊害があった時に、そのワクチン自体が悪いという流れに一気に傾き、公的に使用を中止するということがしばしばありました。厚労省は、ごく少数でも被害があると、多数の利益を確保しようとは動かない――“リスク・ベネフィット”の原則になかなか立たないという歴史がありました。
代表的なのがHPVワクチン(wiki参照)です。HPV(ヒトパピローマウイルス)とは子宮頸がんの原因とされるウイルスのことで、その感染を防ぐためにHPVワクチンが使用されるのですが、日本ではワクチン接種後に副反応としていくつかの障害が起こるとされ、厚労省が積極的勧奨を中止しました(2013年)。その結果、HPVワクチンは世界中で一般的に使われているのに対し、日本では接種率が1%以下にまで落ち込んでしまいました。
https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou28/dl/hpv180118-info01.pdf
日本には、ごく少数の副作用や有害作用を受け入れられない“完璧主義”、あるいは“失点主義”の土壌があるため、“最大多数の最大幸福” (wiki参照)を失っているという現状があると思います。
しかし、最近では厚労省の姿勢も変化してきました。たとえば、アメリカのFDA(食品医薬品局)など海外で承認された薬を日本で販売する場合。本来は日本国内でも第Ⅲ相のランダム化比較試験が必要になります。ランダム化比較試験とは、患者をランダムに2つのグループに分け(ランダム化)、一方には偽薬、もう一方には開発中の薬を投与する試験(患者はもちろん医療従事者にもどちらを投与しているかわからない)です。ただ、ランダム化比較試験を行えば、そのぶん承認が遅れ、患者の利益や企業の利益を損なうことになります。そこで、海外の試験データがあれば日本でのランダム化比較試験は小規模でもよい、あるいは海外の試験データだけで承認するという方向性が出てきたのです。
とくに新型コロナ感染症に関しては、人道的・緊急避難的な使用ということで、薬の承認はかなり緩くなっています。一例をあげれば、新型コロナ感染症の重症化を防ぐとされるレムデシビル(wiki参照)は、日本国内でランダム化比較試験を行わずに承認されました。新しい薬の恩恵を受けやすくなるぶん、リスクもあることを理解しておく必要があるでしょう。
また、第Ⅲ相のランダム化比較試験は、多数の患者に対して行うといってもその数には限りがあります。通常の薬であれば1000人ほど。新型コロナ感染症のワクチンについては最大10万人を対象にするようですが、承認後には何千万人、何億人に対して接種することになります。そこで初めてわかる副作用も当然出てきます(だからこそ第Ⅳ相試験が大事になります)。基本的には第Ⅰ相・第Ⅱ相試験で非常に重い副作用は見つかっているはずですが、完成したワクチンといえどもゼロリスクではないことを知っておいてほしいと思います。
実際、9月9日、アストラゼネカ(wiki参照)が開発中で日本が1億2000万回分を確保したワクチンの第Ⅲ相試験が、重大な副作用のために中止になったことが報道されました(9月12日に試験再開)。
いずれにしても、10万人に1人に起こる副作用のために残りの大多数が有効な薬剤を受けられないとすれば、社会として賢い選択ではないでしょう。ちなみに、飛行機事故に遭う確率は10万回に1回、麻酔事故で死亡する確率は100万人に1人です。個人としても、「副作用がない薬はない」ことを認識し、リスク(損)とベネフィット(得)のバランス(天秤)を考えて選択したいものです(wiki参照)。
では、ワクチンが完成したら新型コロナ感染症はすべてが解決するのでしょうか? ワクチン接種により期待される効果は、効果が高い順に次のようになります。
①感染を防ぐ
②発症を防ぐ
②重症化を防ぐ
たとえば、麻疹(はしか)・流行性耳下腺炎(おたふくかぜ)・風疹の3疾病を予防するMMRワクチン(日本では未承認)(wiki参照)は非常に効果が高く、感染の可能性をゼロに近づけることができます。これらのウイルスは感染力がとても強いのですが、ワクチン接種によりほぼ感染しなくなるのです。
https://www.niid.go.jp/niid/images/epi/yosoku/Vaccination/m2017vaccine.pdf
インフルエンザワクチンについては、MMRワクチンのような感染を防ぐ効果はあまりありません。しかし、インフルエンザワクチンには発症や重症化を防ぐ効果があります。感染した場合に、予防接種をしていれば症状の軽減が期待できるのです。
MMRワクチンタイプかインフルエンザワクチンタイプか――現在開発中の新型コロナワクチンはどのようなタイプになるのでしょうか。じつは新型コロナワクチンが感染自体を防ぐワクチンなのか、重症化を防ぐワクチンなのか、情報は明らかになっていません。ただ、呼吸器ウイルス感染症に対するワクチンで、感染を防ぐ効果があるものはいままで実用化されていません。ですから、おそらくインフルエンザワクチンのように、重症化を防ぐワクチンになるのではないかと思います。だとすると、「ワクチンができればすべて解決。感染しなくなる!」と期待しているならば、その期待は裏切られることになります。
また、新型コロナウイルスが変異した結果、1回治った患者が再発ではなく再度感染したという例の報告があります。ワクチンが完成しても、蓋を開けてみたら、その効果は皆が期待していたほどではなかったという可能性も否定できません。
以上のような、「ワクチンが期待しているほど効くかどうかまだわからない」という視点とともに、もうひとつ大事なのは、「ワクチンを誰に使うのか」です。 とくに、新型コロナワクチンが「重症化を防ぐワクチン」だった場合は、戦略的な使用を考えるべきだと思います。医療従事者、高齢者、高齢者施設の職員など高齢者の周囲にいる方、保健所職員などのエッセンシャルワーカー。ワクチン接種の目的を明確にして、感染してしまったら重症化しやすい人、あるいは感染が広がりやすい施設や職場で働く人への接種を優先的に進めていくべきではないでしょうか。
医療従事者についても、新型コロナウイルス感染症患者や疑い患者の診療に実際に関わる人、すなわち発熱患者や多くの高齢者を診療するクリニック、救急外来、専用病棟などの勤務者を優先すべきでしょう。医療従事者の中でも、直接、新型コロナウイルス感染症患者診療に関わる人は一部なのです。“医療従事者”と一括りにして全員への接種によって、他に優先されるべき高齢者、高齢者施設の職員が受けられなくなることがあってはならないと思います。慰労金のような職員全員への配布という戦略とは、考え方を変える必要があるでしょう(新型コロナウイルス感染症対応従事者慰労金交付事業はこちら)。社会としてのバランス感覚が必要なのです。 「ワクチンができるまでの辛抱だ」と思って頑張ってらっしゃる方は多いと思います。もちろん、ワクチンが新型コロナ感染症収束に向けてのキープレイヤーであることは間違いなく、ワクチンによってコロナウイルスの脅威は軽減されるでしょう。しかし、ワクチンのみでビフォー・コロナとまったく同じ状態に戻れると考えるのは早計です。過剰に期待することなく、冷静にその効果を受け止め、どこまで元に戻せるかを理性的に判断していきましょう。重要なのはバランス感覚です。
(9月9日口述 構成・文/鍋田吉郎)
※ここに記す内容は所属病院・学会と離れ、讃井教授個人の見解であることをご承知おきください(ヒューモニー編集部)。
連載第18回「コロナ下で開催された集中治療医学会」(9月21日掲載予定)