ポストコロナのIT・未来予想図

ヒューモニー特別連載3

第48回 北京オリンピックとデジタル人民元

2021年08月11日 掲載

筆者 山岡浩巳(やまおか・ひろみ)  

中国はデジタル人民元を2022年北京冬季オリンピックで試験的に発行することを計画している。ここで注目すべき点について、元日銀局長の山岡浩巳氏が解説する。

東京オリンピックの終了もつかの間、来年2月には北京冬季オリンピックが開催されます。この会場では、中国当局が開発を進めている「デジタル人民元(e-CNY)」が試験的に発行される予定です。 オリンピックには選手や関係者、観客だけではなく、海外から多くのメディアも訪れます。メディアは競技だけでなく、デジタル人民元の利用体験などについても報道するでしょう。また選手たちも、選手村などでのデジタル人民元での買い物の模様などをSNSで発信すると予想されます。これらを通じて、デジタル人民元は世界の注目を集めることになるでしょうし、中国当局ももちろんそれを狙っているわけです。

北京オリンピックでの試験発行

中国は2014年から中央銀行デジタル通貨の調査研究を進めてきましたが、20204月から、デジタル人民元(e-CNY)の国内4都市(深圳、蘇州、雄安新区、成都)での試験発行を開始しました。その後、実験エリアはさらに拡大しています。

この実験については、ユーチューブなどでも数多くの動画がアップされています。民間銀行が提供するアプリやカードにデジタル人民元が内蔵され、マクドナルドやスターバックスの店頭での支払いやネットショッピングなどで使われている様子を、さまざまな動画で見ることができます。

この試験発行開始にあわせて、中国当局は、デジタル人民元を2022年北京冬季オリンピックの会場でも試験発行する旨公表しました。

そして本年7月、中国人民銀行はデジタル人民元に関する進捗報告書を公表し、この中でオリンピックでの実験計画の一端も明らかにしています。具体的には、無人のスーパーマーケットや無人販売カートが設けられ、あわせて、デジタル人民元による支払機能が組み込まれたオリンピックユニフォームや手袋、バッジなどが用意されます。これらを身に着けて無人スーパーで欲しいものを手にして店を出れば、支払いも自動的に行われることになります。その模様は海外にも報道されるでしょうし、感染症対策の観点からも、このような非接触での支払のメリットが注目されるかもしれません。

デジタル人民元検討の経緯出所:中国人民銀行によるデジタル人民元の進捗報告書(2021年7月)をもとに筆者作成。

なぜデジタル人民元?

しかし、これらは必ずしも「中央銀行デジタル通貨だから可能になった」というわけではありません。

店を出れば自動的に支払いも完了する無人型店舗は、すでにアマゾンが“Amazon Go”で実現しています。また、外国人観光客向けの決済手段としては既にクレジットカードがありますし、それ以外にも、各国ではさまざまな民間の決済手段が登場しています。例えばJR東日本は、外国人観光客向けにNFC(近距離無線通信)を搭載した“Welcome Suica”を発行しています。逆に言えば、外国人観光客に非接触型のデジタル決済手段を提供するために、中央銀行がどうしても自らデジタルマネーを発行しなければならない訳ではありません。

©️東日本旅客鉄道株式会社

中央銀行デジタル通貨の論点

デジタル人民元の北京オリンピックでの実験が注目される一つの背景は、これが、中央銀行デジタル通貨を巡るさまざまな論点と関わってくるからでもあります。

中央銀行デジタル通貨を正式に発行した国が、現時点ではバハマに限られていることが示すように、中央銀行デジタル通貨にはなお数多くの論点があります。その代表的なものとして、「敢えて中央銀行が発行者(債務者)となることの意義は何か?」、「利用額や残高に上限を課すべきか?」、さらに「当局に取引データが集まってしまっても良いのか?」があります。

北京オリンピックでのデジタル人民元の試験的発行は、これらの論点をどうクリアするのかという関係からも注目されます。

現在、中国当局は、デジタル人民元を格納する「ウォレット」を4タイプに分け、高額の支払いにも利用できるウォレットについては厳しい本人確認義務を課す一方、本人確認義務の緩い、少額の支払専用のウォレットも設ける予定にしています。後者はまさに、北京オリンピックを訪れる外国人向けのウォレットとして使われることが想定されます。すなわち、北京オリンピックでの実験は、将来、中国の銀行に口座を持たない外国人がデジタル人民元を使うケースの予行演習となるわけです。

このことは、中央銀行デジタル通貨を巡るさまざまな論点に関わってきます。

まず、「少額の支払専用」であれば、わざわざ中央銀行が発行しなくても、民間の支払手段を使えば良いのではないかという議論があり得ます。

中央銀行がデジタル通貨を直接発行すれば、確かに信用リスクは無くなります。しかし、このメリットは支払いが多額の場合は大きいとはいえ、少額の支払いでは相対的に小さくなりますし、利用が短期間の場合はなおさらです。(例えば、Welcome Suicaを使う訪日観光客が、その信用リスクを気にしているという話は聞きません。)

訪問者の利便性とプライバシー

より深遠な問題は、旅行者が少額の支払専用のウォレットを通じてデジタル人民元を使う場合、そのデータがどう取り扱われるのかという点です。

確かに、北京オリンピックを訪れる海外の人々が、国別にみてどのようなモノをどこでたくさん買うのかといったデータは、興味深いしビジネスの役に立つかもしれません。しかし、外国人訪問者からすれば、自分がどこで何を買ったかを全て当局に把握されることは、あまり気持ちの良いものではありません。また、たとえ現金などとの交換でデジタル通貨を入手する際にIDの提示が求められなかったとしても、購入場所や履歴など他のデータから本人が推定されてしまうかもしれません。このような懸念が生じれば、旅行者は、現金を敢えて中央銀行デジタル通貨に替えたくないとか、むしろ民間の支払手段を使いたいと考えても不思議ではありません。

この問題は、中央銀行デジタル通貨のあり方に広く関わってきます。当局からすれば、海外からやって来る人々の支出行動を把握したいというニーズが、さまざまな動機(経済政策、ビジネス振興、安全保障など)から生じ得ます。一方、訪問者の立場からは、滞在中の自分の行動がその国の当局に全て把握されることは避けたいでしょう。中央銀行デジタル通貨をデータの収集や把握に使える可能性が強調されるほど、「では、なるべく使わないようにしよう」と考える人々も増えることになります。

このことを踏まえると、北京オリンピックの時に試験発行されるデジタル人民元がどのような手続きで、いくらまで入手でき、これに伴う取引データがどう取り扱われるのか(あるいは、敢えてそうしたデータを集めないようするのか)は、今後のデジタル人民元のあり方を展望する上で興味深いポイントです。北京オリンピックでは、競技に加え、デジタル人民元の動向も見逃せません。

 

連載第49回「ベネズエラの混迷」(8月25日掲載予定)

■ヒューモニー特別連載3 ポストコロナのIT・未来予想図

写真/ 山岡浩巳
レイアウト/本間デザイン事務所

筆者

山岡浩巳(やまおか・ひろみ)

フューチャー株式会社取締役
フューチャー経済・金融研究所長

1986年東京大学法学部卒。1990年カリフォルニア大学バークレー校法律学大学院卒(LL.M)。米国ニューヨーク州弁護士。
国際通貨基金日本理事代理(2007年)、バーゼル銀行監督委員会委員(2012年)、日本銀行金融市場局長(2013年)、同・決済機構局長(2015年)などを経て現職。この間、国際決済銀行・市場委員会委員、同・決済市場インフラ委員会委員、東京都・国際金融都市東京のあり方懇談会委員、同「Society5.0」社会実装モデルのあり方検討会委員などを歴任。主要著書は「国際金融都市・東京」(小池百合子氏らと共著)、「情報技術革新・データ革命と中央銀行デジタル通貨」(柳川範之氏と共著)、「金融の未来」、「デジタル化する世界と金融」(中曽宏氏らと共著)など。