これからの大学の変化には、①「リモート授業の拡充」と②「新しい形でのリアル・キャンパスの活用」という2つの大きな方向性があるのではないか――前回(第9回参照)は①についてさまざまな観点から掘り下げてみましたが、今回はその補足、「リモート授業の効率性がもたらすワナ」という話から始めたいと思います。 インターネットは「効率性を徹底的に追求するツール」であるがゆえに、宿命的に「非効率なもの、無駄なもの」を生み出すことが苦手です。
昨年、3人の友人と居酒屋で飲んでいた時、「そういえば、ガッパ(大巨獣ガッパ)ってのは日活だっけ、松竹だっけ?」という話題になりました。われわれのような「円谷特撮世代」も、ゴジラ=東宝、ガメラ=大映は覚えていても、ガッパ、ギララ、マタンゴあたりの“マイナーどころ”になると記憶は怪しくなります。
日活だったかな? であれば、ガッパの哀切な鳴き声は、裕次郎(wiki参照)ワールドからロマンポルノ路線に舵を切るときの「軋み」の音だったのかもしれない…。いや、松竹か? そういえば、ガッパの後ろ姿は、寅さん(wiki参照)がおいちゃんと喧嘩して「とらや」を出ていくときの後ろ姿に似ているような…。
酒に酔った私の頭脳が滑らかに回転し始めたその時です。友人の一人が、「ググったら、ガッパは日活(wiki参照)だってさ。松竹は『宇宙大怪獣ギララ』(wiki参照)だね」と“正解”をのたまいました。私らの世代でもいるんです、飲んでいる時でもスマホをいじり続けている奴が。もう台無しです。ガッパの話はこれでスパッと終わってしまい、話題は血糖値および尿酸値方面に移っていきました。
誰も“正解”なんて欲しくなかったのです。こちとら映画でメシを喰っているわけでも、クイズ王を目指しているわけでもなく、ただただ「バカ話」をしたかっただけなのに。ガッパを起点に、裕ちゃんや寅さんを懐かしみながら、昭和の日本映画を巡る無駄話を皆で豊かに繰り広げたかったのに。スマホの馬鹿野郎!
リアルな世界では、一見すると無駄に思えるものが、非効率な連鎖を引き起こし、それが思わぬ気づきや偶然の発見につながります。いわゆるセレンディピティです。ところが、オブジェクト指向で“正解”を効率的にサーチするネットの世界では、こういった「あそび」や「抜け」はなかなか発生しません。
効率一辺倒のインターネットは、ガッパ帰属問題どころではない大きな問題を教育に投げかけています。小中学校の先生が「リモート授業では、パワポで教材を作って映すことによって板書の時間を省くことができ、効率的だった」と言っているのを何回か耳にしました。これはいけません。
わかっていることを「教える側」と、初めて聞くことを「習う側」とでは、伝達内容の把握と咀嚼にかかる時間は当然異なります。黒板に先生が書き、それを生徒がノートにとる。パワポで投影するのに比べると時間はかかりますが、板書を生徒がノートに手で写すのに合わせて、生徒の脳が先生の脳とシンクロ(同期)し、生徒は先生が伝えようとしていることを理解します。 リモート授業は、ネットの「効率化」という特性上、詰め込み教育に陥りがちです。詰め込みであたふたしてしまう生徒たちは、やがて疲れ果てて思考停止し、学ぶことが嫌いになってしまうでしょう。これでは元も子もありません。
小中高の生徒に限らず、大学生についても事情は同じです。前期のリモート授業を振り返って「多忙で疲れた」とコメントする学生が多いのは、課題が多かったことも一因ですが、ネットでの授業が「あそび」のない、妙に高密度な「詰め込み授業」になりがちなことも原因のひとつだと思われます。われわれ大学教員は、リモート授業に際し、黒板ソフトを使って「板書を通じた学生の脳のシンクロ」を目指したり、「チャット時間」や「雑談ルーム」といった“無駄”をバーチャルに設定したりする等、学生の息が詰まらないような工夫をしていく必要があるでしょう。
無駄なものがあるがゆえ、リアルな人生にはゆとりがあり、ゆったりと思索を深めることができます。青白い、頭でっかちな“正解”偏重の思索ではなく、人間の臭いのする力強い思索は、ゆっくりとした時間の流れから立ち上がってくるものです。
われわれは、貴重な一軍枠を無駄に使って川藤幸三(wiki参照)がベンチにどっかり腰を下ろしていた、1980年代半ばのタイガースこそが、「あそび」や「抜け」を感じさせる、豊かな香りのするチームだったことを、改めて思い返すべきなのかもしれません。
「非効率だからこその豊かさ」は、キャンパスライフにもあてはまります。会うつもりのなかった人間と出会い、偶然の出来事と遭遇し、事前に選り好みできないがゆえに楽しい思いも嫌な思いも味わいながら、無駄なことも含め、豊かな経験を積み重ねていく。こうした体験を実現する観点からは、「リモート大学」よりも「リアル・キャンパス」に圧倒的に軍配が上がるでしょう――私が、これからの大学の大きな方向性のひとつに、「新しい形でのリアル・キャンパスの活用」があるのではないかと考えるゆえんです。 ではこの②の方向性の「新しい形」とはいったいどんな形なのか? さまざまな可能性を夢想してみましょう。
前回述べたニュータイプの「リモート大学」は、安い学費で高品質なオンライン授業を提供することで、日本の学生たちから「コスパの良さ」を理由に歓迎されるかもしれません。しかし、「ネットによるリモートの世界ではなかなか実現できないもの」、つまるところ「フィジカルな場を通じて学生の自己形成を促すさまざまなもの」(第6回参照)の貴重さに気づき、授業をオンラインで受けるだけの学生生活には飽き足りない学生もまた、一定数は存続するでしょう。
こうしたニーズを満たすべく、フィジカルなキャンパスを核にした大学を運営する場合、新型コロナの長期化や新たな感染症の発生を視野に入れるのであれば、今のキャンパス施設のままで、というわけにはいかないでしょう。
講義を行う教室やゼミ室、図書館、PCセンター、体育館といった学生が利用する施設は、「三密」を避けるようなゆったりしたつくりに模様替えする必要があります。アルコール消毒等の感染症対策を徹底するとともに、学内専用の位置情報スマホアプリを使って学生の「動線」が混みあわないようにコントロールすることも考えられます。「密」回避のためには、対面授業にこだわり過ぎず、オンライン向きの授業については一部リモートで実施することも柔軟に検討すべきでしょう。
こだわるべきなのは、むしろ授業以外の部分だと思います。ウィズ・コロナの環境下では、長時間の電車通学のような「人間の移動」はできるだけ制限すべきです。学生の移動距離を極力短くするための方策のひとつは、学生をリアル・キャンパスに住まわせてしまう、すなわちキャンパス内の「学生寮」に学生を入れることです。
欧米のドーミトリー(学生寮)では、相部屋が主流なこともあり、コロナ禍で退寮措置をとらざるを得なかったことは私も承知しております。一方、小出先生・成田先生との鼎談からは、欧米では寮生活という学生コミュニティを通じて、同級生や先輩・後輩たちと「豊かな学び」をしていることを、まざまざとうかがい知りました(第7回参照)。 個室を基本に、感染症対策をしっかりとったうえで共同生活を行う「ニュータイプ学生寮」で毎日を過ごすことは、接触メンバーが特定されており、通学電車や盛り場のような不特定多数と接触する機会がないことから、仮に感染者が発生した場合でも、感染経路を特定することで感染の拡大を防ぎやすいのではないでしょうか。
このような、感染症対策と、学生同士の充実した交流を両立した「ニュータイプ学生寮」での全寮制を前面に押し出すのは、「リモート大学」との違いを鮮明にするためのひとつの戦略として有望だと思います。
弊衣破帽で高下駄履いて、寮歌を高歌放吟するような「旧制高校の寮文化」とは全く異質の、イマドキの若者による「ネオ寮文化」が花開き、寮を核とした学生コミュニティが形成されれば、学生たちも力強い知性を身につけた骨太な人間として成長することが期待できます。 さて、夢が広がる「新型リアル・キャンパス大学」ですが、難点はインフラ整備にカネがかかる点です。特に都市部では多額のコストがかかり、学費が高額になることは避けられないでしょう。
だとすれば「地方」です。新型コロナウィルスは、人間の活動が「密」に展開している都市部の脆弱性を浮き彫りにしました。学生をひきつける強みであったはずの都市部の立地が、新型コロナの感染リスクという点では弱みだということが明らかになった今こそ、大学の地方進出の好機なのかもしれません。新たな「リアル・キャンパス大学」は、比較的土地が安く、「密」を回避したゆとりあるキャンパスをつくることが可能な「地方」に展開するのがひとつの有力な選択肢でしょう。 もしこの動きを「地方創生」「地域活性化」に結びつけるのであれば、地方展開した大学と地場企業がタイアップすることがマストです。「地方での雇用」がなければ若者は地方に残留せず、地方経済が上昇することはありません。インターンシップ等を通じて在学生に地場企業での経験を積極的に積ませ、卒業生の地場企業就職を進めていく一方で、地場企業から大学に寄付してもらうような「地域エコシステム」を構築できれば、新型リアル・キャンパスのインフラ整備コストの一部を賄うこともできます。コロナ禍で淡路島に本社移転するパソナのような企業の動きも合わせ、地方での新たな産学連携が深まることで、集中から分散へ、密から疎へ、の流れが加速し、東京一極集中の是正につながる可能性もあります。
さらに夢想を続けましょう。インフラコスト抑制のためには、複数の大学が共同で地方に(あるいは都心部に)「コ・キャンパス」をつくるのもアリでしょう。企業でいう「コ・ワーキングスペース」の発想です。オフィス・シェアリングならぬ「キャンパス・シェアリング」によって、学生にとっては、キャンパスや学生寮で他大学の異質な学生とも交流できるというメリットがあります。
新型リアル・キャンパスに100%切り替えるのではなく、「複数キャンパス」を保有するのも面白いかもしれません。企業のCP(コンティンジェンシー・プラン)の定番である、「バックアップサイト」の考え方です。都市部の大学が、都市での感染症拡大が深刻になった時でも、リアル・キャンパス活動を継続するために、新たにつくった地方キャンパスに学生たちを“疎開”させる。工場の生産ラインや銀行のシステムセンターをストップさせないためのバックアップと同じ発想です。すでに国内に複数キャンパスをもつ大規模大学であれば、キャンパス間・学部間の垣根を取り払い、キャンパスの「相互運用」をしながら、各キャンパスを徐々に「新型リアル・キャンパス」に切り替えていくのが現実的かもしれません。
せっかく複数キャンパスを持つのであれば、“有事の疎開”のみならず、“平時”に学生が気ままに使うことを許容しても良いかもしれません。日本中にあるキャンパスを数ヶ月ごとに渡り歩く「ノマド・スチューデント」の誕生です。各キャンパスの名物先生のリアル授業を受けるとともに、一部の授業はオンラインで、どこにいようが継続受講できます。何よりも、いろいろな地方を知り、各地の学生寮で多彩な仲間たちに出会うことができます。
以上のような多様なキャンパス活用法(勝手に「田園大学構想」と名づけたいと思います)を可能にするためには、授業は「リアル対面で授業しながら、その授業を同時に教室からライブ中継する」方法で行うのが現実的でしょう。 そして、私が推す「ニュータイプ学生寮」には、寮監として“川藤幸三”的な先生に着任してもらうのはどうでしょうか。寮生活のメインは、もちろん友人や仲間との交流ですが、酸いも甘いも噛み分けた苦労人の箴言に耳を傾けるのも、思わぬセレンディピティを産む可能性を秘めています。もっとも実際の川藤選手よろしく、せっかく起用しても「空振り」に倒れる可能性もまた高い訳ですが…。
さて、次回第11回にて本連載は(いったん?)お開きになります。これまでの論点を踏まえながら、大きな変化に直面している(自分も含めた)大学人に、そして何より現在・未来の学生たちにエールを送りたいと思っています。
(構成/鍋田吉郎)
*大学と一口に言っても、実験や実習が欠かせない工学系・医薬系や、実技が不可欠の体育系・芸術系、また人文科学系でもフィールドワークが必須の分野など、事情は様々です。本稿は、講義とゼミナールを主軸に置く人文科学系の教員から視たものとご理解ください(筆者より)。
*ここに記す内容は渡邊隆彦准教授個人の見解であり、渡邊准教授の所属する組織としての見解を示すものではないことをご承知おきください(ヒューモニー編集部)。
連載第11回(最終回)「コロナ禍を奇貨として」(9月17日掲載予定)