今年の4月から5月にかけて巻き起こった「9月入学政策論争」は、論争を巻き起こした末に見送りとなりました。私も知人や関係機関から賛成か反対かという意見を求められましたが、十分に賛否を示すだけの根拠や情報が不足していましたし、9月入学政策には当時検討されていた案以外に様々な選択肢があるべきだと思い、賛否を明らかにしませんでした。
9月入学論争を振り返ると、9月入学の目的設定もそれに対する批判も、議論として不十分だったと思います。それは、9月入学によるベネフィットが数字で表されなかったからです。私は、大学のみ入学を9月に変更する政策であれば、明らかなベネフィットがあり、コスパ的にも十分に検討の余地があると考えています。
9月入学論争を振り返る
当時議論されていたのは、すべての学校を4月入学から9月入学に遅らせるという政策です。その発想は単純で、コロナウイルスによる休校のためにどの学年も予定されていた学習内容が1年で終わらないし、家庭でのネットアクセスや学習支援の有無による格差の拡大が懸念されるので、1年5ヶ月かけて「皆同じように1学年が終わったことにしよう」、というつじつま合わせが理由でした。同時に、約10年前に東大が9月入学を提案した時の目的であった「教育の国際化」を一気に実現する千載一遇のチャンスともみなされました。
(参考)9月入学、知事の6割「賛成」 グローバル化進展期待(日本経済新聞2020年5月12日) 確かに、1年5ヶ月かければ予定されていた学習内容は終わるかもしれませんが、そこにかかる時間(卒業の遅れ)のコストは無視できません。また、「教育の国際化」のメリットを、具体的に示すことは容易ではありません。
そのような状況で影響力を持ったのは、オックスフォード大学の苅谷剛彦教授らグループのレポートだったと思います。そこでは、すべての学校を9月入学に移行する際の財政費用が丁寧に明らかにされました。半面、9月入学にすることで得られる具体的なベネフィットは明らかにされませんでした。そこで、莫大な財政費用の推計を前に、9月入学政策はコスパとしてどうか、という議論を継続することは事実上不可能になりました。
(参考)相澤真一・岡本尚也・荒木啓史・苅谷剛彦著「9月入学導入に対する教育・保育における社会的影響に関する報告書」[改訂版],2020 年
本来エビデンスに基づく政策決定というのは、政策の費用(コスト)と便益(ベネフィット)をそれぞれ可能な限り明らかにして議論するのが基本です。コストだけ明確で、ベネフィットが不明確であれば、議論することさえ不可能なのは当然です。
「大学のみ9月入学」の真のベネフィット
5月時点の政府見解として9月入学政策の見送りが決定しましたが、他にもさまざまな考え方が存在する「9月入学」がすべて封印されるとしたら、大きな損失だと思います。
9月入学のベネフィットは、国際化でも、コロナで生じた問題の解決でもなく、より長期的な別の形で考えるべきです。私は、大学のみ9月入学に移行することは、コストよりもベネフィットが大きい可能性が高いと考えています。その最大のメリットは、高校3年の授業時間を実質的に増やせることにあります。 現状では、大学進学を目指す高校3年生は、1-3月は大学受験の準備で、実質的な新しい学習内容を学ぶことはありません。それを、たとえば、共通テストを高校卒業直後の4月初旬、私大や国公立二次試験を5-6月にすることで、半ば義務教育化した高校教育において、新しい単元を学習する期間を2-3か月伸ばすことができます。それを踏まえて学習内容も改定することで、その世代が身につける知識や職業能力は今後上昇するでしょう。
このことが、将来の日本にもたらす便益は小さくないと思います。私の研究室では、高校卒業は3月のままで、大学のみ入試を4-6月、入学を9月に移行する政策の費用便益分析を行いました。この政策が社会にもたらす便益を金銭換算し、投下費用に対する便益の平均的利回りである内部収益率で表現すると、控えめに見ても、毎年2%を超える便益を社会にもたらすという結果になりました。最初に莫大な費用はかかりますが、高校3年生の1-3月を有効利用できるという恩恵を受けた世代の増加は、長期的にコストを上回るベネフィットを社会にもたらす可能性が高いと考えています。
(参考)大学の9月入学 長期的投資として検討を 赤林英夫(朝日新聞2020年11月12日)
(参考)「大学のみ9月入学移行政策」の費用便益分析――大学9月開始の最大のメリットは教育の国際化ではなく高校教育の充実だ 赤林英夫(シノドス2020年9月25日掲載、11月9日改訂)
下記の図は、大学のみを9月入学に移行した場合のベネフィットからコストを差し引いた「純便益」を、向こう60年近い将来の各年での価値と、計算で得られた内部収益率(2パーセント)で割り引いた現在価値をプロットしたものです。この図が示しているのは、教育政策というのは、初期費用は莫大であるものの、その効果は長期にわたりゆるやかに上昇するため、これぐらい長い目でみなければ結論はでない、ということです。 まさに「教育は国家百年の計」、なのです。
「大学9月入学政策」成功の条件
もちろん、現在の入学試験制度に変化がないという前提であれば、解決しなければならない課題はたくさんあります。受験生が卒業後の入試対策を塾や予備校に頼り、格差が広がることを防ぐためには、従来高校が担ってきた入試対策の代わりが必要になるでしょう。しかし、これに対しては、教育委員会がオンライン受験指導を充実させることで予備校の必要性を大幅に下げられると思います。家庭でのネット環境が悪い生徒に対しては、母校の空き教室でネット授業を受けることを認めれば解決します(このアイデアは現役の公立高校の先生からご示唆いただきました)。 他にも、秋入学政策の問題点として大学卒業が半年遅れることが指摘されますが、真面目に勉強した学生は容易に4年未満で大学を卒業できるようにすれば、本人の努力次第で家計負担も削減でき、学生の勉学の意欲も、入学時期移行政策のコスパもさらに上がります。学費を年間での徴収ではなく履修単位での徴収にすれば、大学は、早期卒業が増加しても学費収入の減少を抑えることができます。あとは、大卒の通年採用が普通になることが必要ですが、経団連もその方向を打ち出していますし、実際大手銀行は2021年度採用から通年選考することを明らかにしています。卒業時期の多様化が進めば、他の企業もいやおうなしに対応するでしょう。
文部科学省は、今年度の新共通テストを予定通り実施の方向ですが、11月から急増したコロナ陽性者の現状からみて、計画が予定通り実施できるという保証はありません。万が一の危機管理案として、そして来年以降の長期的施策として、 大学のみ入試を4-6月、入学を9月にすることは検討に値すると思います。
教育をお金で考えてはいけない?
教育経済学は、教育を損得勘定(コスパ)で考える学問です。しかし、教育界では「教育の価値はお金ではない」、「経済原理で考えてはいけない」という見方が根強いようです。
コスパで考えるというのは功利主義的な発想です。それが日本の教育をダメにしたとする代表は、内田樹「下流志向」(2009 講談社文庫)です。
内田氏は「この勉強をして何の役に立つの?」という功利主義的な問いを子どもがするようになったことを問題にし、「何の役に立つのか・・・どんな価値を持つのか計量できないという事実こそ、彼らが学校に行かなければならないという本当の理由」であるから、そのような質問には答える必要はない、勉強することの価値は勉強することでしかわからないからだ、教育は通常の消費と異なりただちに価値を与えないにも関わらず、子どもを合理的な消費者とみなしてしまったことが日本の学校教育を巡る問題を深刻にした、と主張します。 このような意見を「情緒的」「教育評論家」と嫌う経済学者や政策関係者が多いことを知っています。しかし、同時に、このような主張に素朴に共感する人も多いでしょう。実は私もその一人です。
内田氏の主張の根幹は、大人や教育者は、子どもから見たコスパとは別の視点と時間軸で教育のコスパを考えなければならない、未熟な子どもの近視眼的コスパの主張に耳を傾けてはいけない、という点に尽きます。つまり、彼はまさに「教育をコスパで語って」いるのです。そこで問われているのは、「教育においては誰の目から見たコスパを優先すべきか」という、より深遠な問題です。
社会全体で考える教育のメリットとは
教育が個人にもたらす価値と、社会全体で求める価値は、容易に乖離します。そして、教育の価値は教育を受けなければ理解できません。だからこそ、社会の仕組みを理解する途上にある子どもには完全な自由を許さず、“強制的”に教育を受けさせる義務が大人にはあります。
「社会全体の利益を達成するためには、時には個人の自由を制限しなければならない」――コロナ禍で社会が混乱している現在、このことは、多くの人が身に染みているのではないでしょうか。人間は、えてして近視眼的に行動する不完全な存在です。教育制度は、それを前提として設計されなければなりません。そして、教育は「長期的に」「社会全体として」コスパに見合う(=金銭的リターンがある)必要があります。それを否定すると、学校教育が貧困を解決し、犯罪を減らし、ひいては社会の発展に貢献するという希望さえ失われるでしょう。
それを示すためには、やはり、教育の価値を可能な限りお金で測る必要があります。今回の前半で述べた大学の9月入学政策の意義も、そのベネフィットを金銭で示すことで、初めて議論を俎上に載せることができるのです。
一方で、社会全体の利益につながる教育投資に対しては、個人レベルでも十分高い、目に見えるコスパを与えることも重要です。誰もが、「社会に貢献している」といった精神的満足感だけで学び続けることができるわけではありません。
日本は大学院に進学することの金銭的メリットが小さいため、海外と比較して博士号取得者が少なく、専門人材の高度化が進んでいないと言われます。学校が勉強のおもしろさだけを伝え、それを極めた人に何も与えない、という社会であってはいけません。教育による金銭的リターンはやはり必要です。日本社会は、頑張って勉強した人、専門を究めた人に、それにふさわしいものを与えているでしょうか。与えていないとしたら、そこでの問題は何なのでしょうか。 その答えを出すためにも、前2回(第2回、第3回)に議論したような大学入試や大学教育課程のあり方について、根本的に問い直す時期に来ているはずです。
本連載を最後までお読みいただきありがとうございました。ここで、連載第1回の中の一文を繰り返させていただき、締めくくりたいと思います。
「コロナウイルス危機は、日本の学校教育を根底から変えようとしています。しかし、本気で変えられるかどうかは、私たち次第です。」
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今回で赤林英夫教授の連載『コスパで測るコロナ下の学校教育と大学受験』はいったんお休みします。 教育をお金で考える――新鮮な視点で、さまざまな気付きをいただきました。赤林先生、ありがとうございました。
赤林先生には今後もヒューモニーの中で積極的に提言していただきますので、次回連載開始をご期待ください。ご愛読ありがとうございました。(ヒューモニー編集部)
※ここに記す内容は所属団体と離れ、赤林英夫教授個人の見解であることをご承知おきください(ヒューモニー編集部)。